独り相撲日本代表

取るに足らない戯れごと

蜜柑色したひっぴー

「この楽曲はTikTokで流行らないでほしい」という意見をチラホラ聞くことがありますが、私が推察するにこの理由には2つあると考えています。

①切り取られたパートの部分しかTikTokユーザーは知らないので、本当にその歌を知っているとは言えないから。曲から読み取れるメッセージも分からないまま自己顕示欲を満たすbgmツールとして、好きな曲が消費されるのはファンとして腹立たしい。「何も知らないくせに」といった感情。

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(画像に対して特に意味はありません)

「マイナーな曲を知っている俺」という自分自身のアイデンティティが、ネット内の流行による大衆化に伴い無くなるかもしれないので。すがる場所、言い換えると自分が唯一誇ることのできる部分が無くなってしまうから。

ひねくれすぎでしょうか。

しかしながら大学生である身分の私には様々な種類の友達がいますが、マイナーな曲、映画、バンドなどを個人で楽しむに留まらず「これは俺のソウルだ」と言わんばかりに自身の知識をひけらかす、相手がそれに対してよく知らないことを分かっていながら優越感に浸る痛々しい人をよく見てきたのでこんなところだと考えます。

 

私自身は色々な曲が知れるしいいなぁ。と去年頃までTikTokを見ていたのですが、やはり自己肯定感メーターが振り切れた人の踊り狂う投稿を見るのがどうしてもしんどくなったと言うものがあり、(半分羨ましくもありますが)その中で自分の好きな曲が使われていたらダブルパンチで苦痛なので辞めてしまったのでしょうか、思い入れのある曲を「いいね稼ぎ」に使われたくは無いでしょうよ。

 

とにかく言えることとしてTikTokユーザーには「曲の美味しいところ」の本質が見えていないのでは?と感じられます。リズム重視の曲でも多少なりともメッセージはありますし、歌詞の考察をすると本当にやめられません。

 

そこで今日は私の好きな歌手であるやくしまるえつこ(カバー元ははっぴいえんど)の「はいからはくち」についての考察を述べていきたいと思います。はいからとは明治時代に使われるようになった言葉で、西洋風のみなりをした人の事を揶揄する意味を込め使われるようになりました。要は「海外かぶれ」「流行りに流されやすい人」という意味です。歌詞を見ても一見どんな意図がこの歌にはあるのか?と思われます、この曲の歌詞部分は二つのパートに分かれています。一つずつ見ていきましょう。

 

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①ぼくははいから血塗れの空を
玩ぶきみと こかこおらを飲んでいる
きみははいから裳裾をからげ
賑やかな都市を飾る 女郎花

②ぼくははいから血を吐きながら
きみののおにただ夕まぐれ
きみははいから唐紅の
蜜柑色したひっぴーみたい

 

「ぼく」が感じている事

「ぼく」は「きみ」のことをまるで「賑やかな年を飾る女郎花」もしくは「唐紅の蜜柑色したひっぴー」だと思っており、そんな二人は「こかこおら」を飲んでいる、という情報が読んで取れます。

 

「はいから」の後ろに続く言葉

「ぼく」側のはいからと言った物には後から「血」というワードが必ず出てきます。

「きみ」側のはいからには「唐紅」「裳裾」という古き良き日本。ハイカラな風情とはまるで無関係な身なりをしていることが分かります。

「ぼく」に関しては洋風な身なりであるか和風なのかは受けて取れないので、恐らく2人共が和風な身なりをしているであろうにも関わらず洋な飲み物である「こかこおら」を飲んでいる事実が残ります。身に付けているものと口にしているものが釣り合っていないこの2人はいわゆる「はいから」と揶揄される事実があります。

「はいからはくち」は掛詞

ただ先ほど申し上げたように、

「ぼく」は「血」

「きみ」は「唐紅」「裳裾」というワードがそれぞれの「はいから」の後ろに付いてきます。

これは「肺から吐く血」「ハイカラ白痴」という意味合いで取られています。

つまり

「きみ」は和風の身なりをしながらコーラを飲むと言った、流行りに流されやすい「白痴」(意味合いでは重度な知的障害とされていますが、それくらい西洋に傾斜している、といった喩えのように感じます。)

 

「ぼく」はそんな「きみ」に付き合ってこかこおらを飲んではいるものの、ハイカラな「きみ」に対する嫌悪感に精神が蝕まれ、まるで肺から血を吐くほどに追い込まれている。「嫌悪」している部分は「きみ」に対して「蜜柑色したひっぴーみたい」と言っている点から見て取れるでしょう。

どれだけ海外にかぶれてオシャレをしようが蜜柑色の黄色人種じゃん、といった意味として捉えました。

 

このような形で一つの歌詞でも少し考えてみると様々なメッセージが読み取ることができるのです。

 

TikTokを撮るのも良いですが、どうせなら十分に曲を味わってみませんか??

 

 

 

それではまた。

選択する私と選択しない私を選択する私を選択した私の選択についてのお話

私がよく出来た人間になるには何が足りなかったんだろう、人格形成に影響する1番大きなものは何だろう、度々そんな考えが決まって夜にやって来るのです。

というのも初めてのブログhttps://yellowrace.hatenablog.com/entry/2019/12/21/155255

でも話している通り、私は他人の目を必要以上に気にしてしまう性格です。本来の自分を出す事が怖いと言うよりは、長年の積み重ねで出せなくなっている。と言う方が正しいでしょうか、

おそらく本当は明るい性格なんです。幼少期はそうだったはず、知らないうちに親のしつけだったり、自分の視野の狭さからの失敗、皆が当たり前にできている事が出来ないことに気づき、他人にガッカリされ、その場では誤魔化しつつもそんな自分にうんざりする事を繰り返す毎日を送ってきました。ひょっとしたらそういった経験から私は変わっていったのでしょうか、

いつからか、その結果として自分がこれ以上に能力不足だとか、他人にガッカリされないようにというようなリスク軽減のため、先に「変な子と思われるようにそういった人物を演じる」ことで他者からのハードルを下げるといった行為を何年間も続けてきたのです、そうすれば少しのことでも褒められますからね。

いわば「挨拶」という当たり前の行為を、ヤンキーがそれをするだけでエライ!と褒められるような反応を得られるようなものです。

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こういった人間関係におけるリスク回避行為のような物は、自分の中に当たり前のように住み着いている、既に習慣化してしまっている物なので、自分の中に複数人の自分を飼っている事実、本当の自分ではなく、「他者から見られている自分」を無意識に演じようとして、

「自分の中のもう一歩奥にいる自分」が本来の自分ではなく、他者から見た自分を演じる事を選択した結果として、知らないうちに本当の自分がキャラクターとしての自分に取り込まれてしまっている事実には本当に本当に気がつかない物です。

 

大学生という身分の私はコロナ禍の間、人と会わない期間が増えた事でおうち時間の半分以上の時間は自分自身に、自分と向き合う時間を作りました。向き合った内容は全て対人関係においての自分の姿勢です、その向き合った時間のおかげで少しは人間味が出せるようになったのでは無いかと考えています。

そこで自分を作り上げている思想、キャラクターという物はどこから生まれ、どこから大きく影響を受けるのか、それは果たして本物なのか、得たそれが結果としてこの社会にどういった影響を及ぼすのか、といった話をしていきたいと思います。その意図として、このブログにてコロナ前の自分のような人を老婆心ながら救ってあげたいのです。

(私は幼少期から失敗した時、暗い気分になった時に自分はなぜこんな性格になったのか、こんな自分にさせたのは誰だ、という考え、もしくは合理化に近しい物をかなりの頻度でしていたので、この手の知識に少し詳しいのです。今回は小難しい内容ですが読める人は読み切ってください。)

①ラベリング行為から考える

「自分」を知っていくためには、「本当の自分」と「相手が知っている自分」の2種類の人格が備わっている事を前提として考えていきます。まず、自分だけが知っている本当の自分ではなく、「社会から見た時の自分のキャラクター」を形成していくうえで必要不可欠なのは、主体的に、時には受動的に行う社会の中での行為にあります。

他者とのかかわりの中で人の役割には「評価人」と「表現者」の2つが存在しており、表現者”ふるまい”から評価人はそれぞれが持つ「この人は○○の要素を持つ人だから、○○を持っているから、○○に住んでいるのだから、こんな人に違いない」という社会一般的に考えうるイメージの枠組みに表現者をあてはめたうえで、良い意味でも、悪い意味でも評価人は表現者に対してキャラクターという名のレッテルを張るのです。表現者がどう言った気持ちでその振る舞いをしたのか、とあった事情は無視して、今見える事実のみを切り取ってレッテルを張っていくのです。

この、他者との関わりで得た情報(例えば相手の学歴、身なり、言葉遣い、資産など)から世間一般のイメージに相手を当てはめる行為を「ラベリング」と言います。

(例、アイツは入れ墨をしているから暴力団に違いない、暴力団とみなした上でアイツと関わろう、としていくような行為、)

 

表現者はレッテルを張られることで、自らの個性からではなく、他者からの評価というレッテルに沿うように人格は形成されていくのです。つまり、「本当の自分」という存在は「評価人から見た自分のイメージ」によって作られていくという事です。

先程の入れ墨の彼も暴力団ではなく、ただのファッションでしている可能性もあるのに、彼のことを何も分からないくせに、暴力団としての関わり方を世間はするのです。そして彼はそのイメージにより近づくように、無意識にその方向へと動いていくのです、

ここで問題になるのは、世間一般の意識をあてはめていく要素となる表現者の行為は、必ずしも本意ではないまま、評価人からレッテルを張られてしまう可能性があると言うことです。つまり、表現者は社会行為を「他者から見られること前提の行為」「表現者そのものの人が見て取れる意図しない行為」の二つに使い分けているものの、評価人からすれば見えたままを、表現者のキャラクターを決めつけるという事です。

 

皆さんにも同じような経験があるかも知れませんが、ある人が「場の空気を和ませる意図」を持って一発ギャグをし、滑ったとします。その行為を見て私たちは、「この人は昔からこういった滑りキャラなんだな、これから先もそうなんだろうな」と相手の意図とは関係なくキャラクターを決めつけたような経験はありませんか?そのイメージ故に彼を訳もなくいじったりした経験はありませんか?これが仮に彼は本来気を使うタイプゆえに、柄でも無い事をしたのだったら、彼のダメージは計り知れないでしょう。「俺の普段はこんなキャラじゃないのに、、」

彼はそう思っても私たち「評価人」から見たらただの出しゃばりな滑り人にしか見て取れません。言い換えるならば評価人は表現者の行為に隠された真理を読み取る過程をすっ飛ばしたままキャラ付けをしてしまうのです。

だったら「いい人」なんかやってらんねーよって話なんです。変に気を使わなくて良いんです。だって評価人はそこまで読み取ってくれないんだから、

今回の事柄で言えば、表現者にとって、評価人に向けて行った行為が相手の為だという、自らの意思ではないと言う側面を持ち合わせているのにもかかわらず、評価者から「見える部分」のみで世間一般のイメージを通して「ふるまい」を評価されてしまうことになり、表現者は、レッテルにふさわしい行動を取るようになっていきます。人の人格とは、他者によって形成されるものなのです。

 

冒頭に私が試みていた、他人にガッカリされないようにというようなリスク軽減のため、先に「変な子と思われるようにそういった人物を演じる」ことは、実は「私があえて選択した決断」ではなく、私の数多い失敗から、時には自己犠牲のため(先述の場を和ませる行為のような物)に行う面白おかしい行動から『「私」はどんくさい人である』と親や友達などの「評価人」が下した世間一般の「鈍臭い」イメージを私に当てはめ、その上で評価人が私をラベリングをすることで、私自身が「そうか、私は鈍臭いキャラなんだ。」と「評価人に操られる形」で「鈍臭い私」という1人の人物が完成していくのです。そして他人に操られている事に気がつかないまま日々を過ごしていく事になるのです。

 

文化資本から考える


では評価人が表現者に対して世間一般のイメージを通してレッテルを張る基準となる、表現者の「ふるまい」の質はどこから得ていくものなのか?

それは「文化資本」という自らが持つ、自分の価値を証明するものがあります。この文化資本には3種類あり、

①「自ら動いて得た価値でしぐさや趣味、ものの言い方など、意識せず日頃の生活で身についたもの。

②「書物や骨董品などの形で表された、資本力

③「学歴、資格などの周りから認められる形で表されるもの。」の3つが、自らの価値を証明する資産となるのです

が、

実はこれらの資産というものは、同時並行で得られないのです。生まれ持った居住地や身分、財の所持状況の“程度”で①の個性、しぐさといった無意識の慣習が形成されて、評価者が①から表現者をラベリングする材料とし、そこでラベリングしたキャラクターによって、②.③の程度が決まってくるのです。

 

人が身につけていく人格は、言い換えれば他人がラベリングをする材料となるものは、生まれの場所、所持する資本の程度で決まるといっても過言では無い。という事です。

 

不公平すぎます。では貧乏な人は皆んな嫌な性格をしているのか?全員が全員そうとは言い切れません。しかしながら、貧乏な親というものは、子どもに与えるもの(教育費、財によって与えられる事のできる経験)などが大金持ちとは比べ物にならないでしょう。

 

すると何が起こるでしょうか、極端な話かもしれませんが貧乏な家庭で育った人なら「心身共に満ち足りている」生活を送れません。その日その日を過ごすのに精一杯なほど貧窮していれば食べ物を万引きをするのでは無いでしょうか、まともに学校に通えなかったり、通えたとしても、自分の境遇と似たような人とつるむようになり、不登校になるのでは無いでしょうか、不登校を経験する事により「何でも諦めてしまう、途中でやめてしまう」性格になるのでは無いでしょうか?

 

常識もまともに知らないまま身体だけが大人になった時、残されているのは評価人から「社会の外部に属するもの」という評価だけです。

社会から差別を受けるかもしれません。いい職につけないかもしれない。職にもつけないかもしれない。評価人は「貧乏な家庭で育った」バックボーンを理解していなくとも、①のような言葉遣い、しぐさなどからそのような背景で育ったと判断します。そこから世間一般のイメージにその人たちを当てはめ、「〇〇はこんな言葉遣いだし、こういうキャラだろう」とラベリングをされ、表現者の彼らも、それにより近づくような行動をしていきます。

事実、私もそういった「社会の外部」に存在する人たちは「教育に費やす費用が足りなかったからそうなったのだなあ」と彼らをラベリングするでしょう。

 

悲しいですが、ラベリングにより人々の人生は大きく左右され、仕事に対して「指示するもの」「指示されるもの」という社会構造すら生まれてしまいます。資本主義が大きく広まった現代のような、世界をより良くしていくために「下の人間」を犠牲に発展を続けていく日本であれば尚更その傾向は強いのでは無いでしょうか、

 

ところで、評価者が評価する表現者のふるまいのうち、①の身体化された振る舞いは自らがコントロールして形成されるのではなく、生まれた場所やその土地での身分によって個性が形成されるので、貧しいところで育った人物ならば、後から成り上がりにて財を得ようが、②を得ようがそれまでの身体化された蓄積された行為が表面に現れるので、評価人からすると文化資本が豊かとは見てとられないのです。

 

例えばここ1ヶ月のうち、生まれてからずっとホームレスの人が宝くじで10億円を当てたとします。どれだけ高価なものを身につけようが、どれだけ高級なレストランに行こうが、それまで蓄積してきたホームレスなりの行動は消せるものでは無いですよね。食事の席で言えばテーブルマナー、ドレスコードなどの知識は一朝一夕で得られるものでは無いので、その場にいる評価人からすると、ホームレスがどれだけ高価なもの(②)を持っていようが、それに見合う行動(①)が無ければ良いイメージのラベリングはされません。

 

なぜ彼は身なりが綺麗なのにいいラベリングをされないのか?生まれ育った環境から得ていった無意識の行為と身につけているものが矛盾していたからです。生まれ育った環境が悪かったからです。この世はほとんど環境ゲームです。この近代資本主義が広まる現代で資本的に、思考的に貧乏な家庭に生まれたら終わりという考えが深く根元に埋まっているのです。

 

それに気が付かない人たちは自ら(私たち)が生き辛くなった時、自らが選択してキャラクターを演じていると勘違いしています、実は他人から、社会からにも操られ、果てには従事していく仕事や生活なども決められていくのに、、

 

つまり、この社会は
①現存している社会構造である、資本主義は下位存在の犠牲をもとに、差別という名のエンジンで発展化し続けている社会がある、という事実がある
②下位存在は資本が相対的に少ないから住むことの出来る場所が限られる、教育に投資させられる額が小さいゆえに文化資本が小さい、その中で得た文化資本に基づいた振る舞いから他者との社会的相互行為に臨み、評価人が○○な人物だ、と社会意識のもとラベリングをする
③ラベリングされた人は良い人物でも悪い人物であろうとラベリングされた人の「世間一般のイメージ」のもとその人物にふさわしい人として振舞おうとする。
④これまでの過程にて人それぞれの社会的イメージが出来あがって、それぞれが属するようなコミュニティまで自然と進んでいくことで日本の社会がより発達していく。

 

人格は社会に連動していて、こういった図式が浮かび上がる。という結論に私は至ったのですが、自分がこんな社会構造に取り込まれない事ができる方法を見つけました。わたしは一年かけて、コロナ禍を経て考えついたのです。

 

 

それは、

 

 

 

人の目を気にせずにやりたい事をやる。ネガティブ禁止。自分が1番。

 

 

それだけ!初めからポジティブなやつが世界一!

考えすぎな性格は損ですからね。こんなにシンプルな事で日々の生活が楽になるなんて、目から鱗でした。

 

 

いやあ、自己肯定感がほしいね。2022年も頑張りましょう、

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それではまた。

勲章

一年半ぶりの投稿となりました独り相撲日本代表です。

この春から大学4回生になる私は、就職活動中。厳密には面接対策の為「自己分析」を行っています。

「学生時代に力を入れたことは?」「あなたをモノに例えると?」「尊敬する人物は?」というような、企業側が私たち求職者における性格や価値観、仕事に対する意欲、適正力を確認する為の質問にサラサラと答えることができる為の対策をしています。

つまり俯瞰的に見た「自分」を改めて知っていくために、生まれてから現在までの思い出を事細かにノートにまとめている最中なのです。姉にもらった様々な質問が載っている「面接対策プリント」を参考に自分ならこのように答えるだろう、と熟読しているところ、ある質問が私の目を釘付けにしました。

「成功体験を教えてください」

私が考えつく成功体験のような物は以前ブログでも掲載したように、フルマラソンの完走くらいしか無いような気がしました。

https://yellowrace.hatenablog.com/entry/2020/01/02/182210

そこで得た、長い期間長い距離を走り続けルーティン化するまでトレーニングをし続けた持続力だとか、モチベーションを維持するための練習メニューを考えた計画性のような物は別件の「自己PR」で書くこととして、その他に大学生のうちで治めた成功体験って何かなあと考えました。

 

はてなブログを一年続けきった実績がありました。

 

見逃していました。ブログを1年間続けたことで話を簡潔にまとめる力だったり、自分の中にある嬉しさやモヤモヤをハッキリと言語化させられる力を確実に手に入れられたのです。ブログをつけ始める前は物事に対して「なぜ?」と疑問を持つ癖や、自分の確固たる意志というものがありませんでした。

そんな時、中学生時代の友達がはてなブログをしていたことを知り、彼の投稿を見てブログというのは感じたことを忘れないうちに文字に残せ、見返した時に自分の考え方というものを再認識できるんだ。と感動したのがこのブログを始めたきっかけです。

「書きたくなったら、自分の考えがまとまれば記事を書く」スタンスでいたのですが、記事を書いていくうちに思ったよりも自分が文章を書く、自分の考えを綴ることが好きだと分かったこと、ブログのネタを探す為に常に自分の中でアンテナが張られているのでボケっとしている時間が無くなったことに気がつき、そこからはてなブログを1年間続ける事を目標にしました。実際に2019年の11月から2020年11月までの1年間続けきった事、その継続力は紛れもなく私の大きな財産です。

前回のブログが丁度1周年で、そこから放置し続けた結果ブログの存在を完全に忘れていました。

今回の就職活動にて久々にはてなブログを思い出し改めて記事を見ると、手前味噌ですが「松本人志になりたかった日」「スピードスターのブログ」などは中々上手くまとめられているのでは無いかと思いました。こだわりとしてオチが綺麗に決まる事と、記事のタイトルが内容とうまく絡みあう事を重視しているので、記事を書くに当たって1番時間をかけているのがタイトルなんです。一つ一つ記事を見ていくと、書いていた当時とは価値観も変わっているなと感じさせられました。

https://yellowrace.hatenablog.com/entry/2020/06/02/000108

 

https://yellowrace.hatenablog.com/entry/2020/04/01/000010

これまで気にも留めていなかったのですが、はてなブログには通算プレビュー数を見る事のできる機能があるのですが、現在が5443回でした。だったら前回達成したブログ1年間継続チャレンジの次は、プレビュー数10000回チャレンジをしてみるのもいいのではと考えついたのです。

 

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新しいチャレンジを達成する為に、空いた時間ではてなブログを再開してみようという次第。

就職活動真っ只中ではありますが、再度自分の感じた事や趣味のような物などを書きつつ、並行して希望する会社へ行くという2つの目標を達成できるように頑張っていくので、応援のほどよろしくお願いします。

それではまた。

極楽行きまで2万円と900円

ヘッドスパに行こう。」唐突に思いついたついこの間、2、3ヶ月頭痛や眉辺りのコリが凄かったので大学生特有のノリの軽さを活かしてすぐに予約しました。とにかく頭皮がカチカチで動かず、マッサージ方法なども調べてみたのですがどれも効き目が無かったのです。

60分で約5800円のコースを予約、これは大体相場の値段です。マッサージ店と言われると少し怪しい雰囲気もしないではないので、口コミ、相場に対して店の提示する値段などをしっかり確認した上で予約をしました。我ながらリスクマネジメント能力の高さに感服するばかり、

 

そうなった理由には、まだコロナ前に友達と行ったいわゆる「怪しい」お店での経験があるからです。実際のところ、「怪しいお店」というのはやはり値段が高い訳で、少し前に友達と行ったところは60分で20900円のコースでした、その中で45分約1万円の破格コースを選んだ友達は、お相手がまるで千と千尋の大根神様みたいだったらしく、帰り際に死んだ目で店を出ていく彼を見たのを他の友達と大笑いした思い出が強く残っていて、そいつが酷かった分私たちの方は大当たりでしたから勝ったような気分でした。

 

この経験から行き当たりばったりで行動せずに、事前に下調べをして店のレベルを把握すること、要求されるお金の高額さには品質、安心感を与えるためにもあることを痛感させられたのです。今ではコロナの関係で中々そういった事も出来ないので残念ですね。

 

私の中で学生のうちに内容は問わず、様々な経験をした方がいいという考えがあります。実際この時の経験のように話のタネにも、社会勉強にもなったりするので、皆さんも普段行かないようなところにチャレンジしてみるのも良いのかもしれません。

 

とそれまでは思っていました。

 

さて、本題に戻りましょう。

そのお店はネットによると評判の良いしっかりしたお店だったので、安心してヘッドスパサロンへ向かい、扉を開けました。

 

 

よいしょっと

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そこには非常にゴージャスな、煌びやかな空間がありました。「女性に重きを置いてるタイプのサロンか、少し敷居が高いかもしれない。」思わず怯みました。来店してすぐに体調アンケートを渡され、書いていると店員さんが「ウェルカムドリンクはカモミールティーとルイボスティーとゆずレモンティーの3つがございます、どちらに致しましょうか」当たり前のように言われたのです。

 

まずヘッドスパにウェルカムドリンクがあることに驚きます。身も心もリラックスした状態から施術を始めるということなのでしょう。どれも飲んだことがないので、そんな都会育ちの環境では育ってきていないので、唯一原材料が分かっているゆずレモンティーを選びました。

 

意外だったのがマッサージは頭だけと思っていましたが、最初の10分ほどは「足」を集中的にマッサージした事です。実際どこの部分にしろ「コリ」というものは血液の循環が鈍くなってできるもので、その結果として冷え性や慢性的な疲れ、自律神経を崩す原因になります。だから根本から頭のコリを取るには血液の回収が滞りやすい、心臓から遠い場所を集中的にマッサージする事で心臓の血液回収。全身の血液の巡りが良くなっていくので足下のマッサージというのはとても理にかなっていたのです。

 

しばらくマッサージを受けていましたが浮かんできたのは「自分でやった方が気持ちいいかもしれない」という雑念でした。マッサージ自体は気持ち良かったと思うのですが、突然「60分で5800円は高い、牛丼15杯分くらい頼めるのでは?」という考えが巡ってマッサージにあまり集中出来ませんでした、流れを変えるために「もっと痛くしてください」と言ったのですが今思えばただの変態のようにしか聞こえません。しかも気持ち良くなかった。こんなの言い損も言い損のうえ、頭痛も治らなかったし踏んだり蹴ったりです。

おいしいご飯を食べに行くよりマッサージを選んだ自分が悪いのか、そもそもマッサージごときに金を払う自分は大バカなのではないか、などという考えが巡れば巡るほどマッサージが、マッサージ師が煩わしく思えてきました。あの日以来私の中の価値観が大きく変わったのです。     

多少なりともお金を払って冒険してみるより、現状で満足している安定したものにお金を費やす事の方が良い。と私をつまらない性格にさせた体験なのでした。

 

私は行く前日、父から「マッサージ店なんか女がいくとこだ」「もしかしたら怪しい店かもしれない」「なんなら行かない方が良い」とまで言われました。

 

「女が、男が」なんていう時代なんかとっくに終わっているのに。本当に頭の固いお父さん、自分こそヘッドマッサージに行ってくればいいのに。

ごめんねマイペット④

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別に胸を張れるようなことではないのですが、人生で1番死なせてしまった生き物は「ホウネンエビ」と即答して言えるでしょう。

 

田んぼによくいるそれは、お腹を上にして泳ぐので知らない人が見てたら死んでいる、と思わず勘違いをするような独特のフォルムになっています。

 

その昔、このエビが田んぼにいるとその田んぼは豊作だった、という話から豊年エビと言う名前になったそう、

 

 

 

 

今回のエピソードはホウネンエビです。

 

 

 

家族でデパートへでかけた時のことです。子ども向けコーナーに、エビの飼育観察キットを見つけた私はこれをどうしても育てたいんだと親に頼んだのですが、これまで様々な生き物を死なせてきた私の事なのでダメだと断られました。そのエビの卵は一度乾燥してから生まれる、といった特徴を持っており、キットには乾燥卵に水を入れるとエビが生まれると書いていました。

 

 

聞き分けのいい私は一旦その場は諦め、家へ帰って私の愛読書であった生き物図鑑を暇さえあれば熟読し、その熱意に親は打たれるだろうという魂胆で過ごしていました。

 

しばらくしてからそれを見つけたのです。田んぼでよく見られる生き物だと書いていたので、すぐさま田んぼへ行くと、今までは気づかなかったのでしょう。山のようなホウネンエビがいたのです。まるでホウネンエビパーティーです。もうその日はエビのことしか頭にありません。

 

 

山のように捕まえ、次の日には学校へ持って行きました。当時メダカや蝶など飼育している人はいましたがホウネンエビはおらず、ホウネンエビを飼育している俺すごい、と得意げになった私は給食の時間におかずの磯辺揚げを水槽の中に入れ、見せびらかすようにかいがいしくそれらのお世話をしていましたのです。生き物を飼う序盤というのは自分がお兄さんお姉さんになった気分になるから、「養ってあげないとこいつはやっていけねえんだよ、俺なしじゃあこいつはダメなんだよ」といった気持ちで、みんなにお世話するところを見せびらかすのです。私はそんなガキ大嫌いなんですが昔はそうだったみたいです。

 

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本来ホウネンエビは水質に敏感な生き物です。生活場所に油にまみれた磯辺揚げなぞ入ろうものなら致死案件でしょう。知らない私は嬉しそうに入れ、学校へ帰る頃には全部死なせていました。こいつら動かへんなあーみたいな、ちなみに水槽には磯辺揚げの油がこれでもかと浮いていました。同様に死体もこれでもかと浮いていました。

 

 

よく考えれば水槽の水もカルキがじゃんじゃん入っている水道水でした。無知ほど怖いものはありません。

 

ところで

 

磯辺揚げの緑の部分とホウネンエビって似ていると思いませんか?私はいまだに磯辺揚げを見ると飼っていたホウネンエビのことを思い出します。そしてそのリベンジとして飼育キットを買おうか悩んでいます。

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「幸福を運ぶ幻の宝エビ」と書いてあるのできっと幸せを運んでくれるのでしょう。大学生になった今でもこう言うのを見るとワクワクします。「幻の宝エビ」一緒に遊んでくれる人を大募集中です。誰か私と一緒に幸福を運びませんか?

 

 

 

 

 

 

少し怪しい宗教みたいですね。

それではまた。

宮殿じゃない方のカンブリア

地質時代ってロマンがあっていいですよね。数ある地質時代の中で、あなたの好きな年代はどこでしょうか?皆さんの幼少期もやはり、小学館「大むかしの生物」を愛読書にしていたと思うので、迷われる方も多いかと思います、分かりますよ。無理もありません。どの年代もそれぞれ違った良さがあります。どうぞお考えください。時間はたっぷりありますから。

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白亜紀かなあ、ジュラ紀もいいよな、」とてもよく分かります。その時代もとても魅力的ですよね、でもやっぱり1番魅力的なのはカンブリア紀ですよね!そこで今回はカンブリア紀期にいた私の好きな生物。「バージェス動物群」について話していきたいと思います。

 

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と言いたいところですが、大体の人が何の話をしているのかわからないと思います、愛読書が生き物図鑑の人なんかいないでしょう。そこでまずは地質時代カンブリア紀の説明をしていきたいと思います。

 

地質時代とは

 

約46億年の地球の誕生から現在までの間までで、文献資料などの現存しているものによって、歴史の出来事を検証することが可能な時代(有史時代)よりも前の時代で、地質学的な手法でしか研究できない時代の事です。文献資料が無い時代ですね、つまり文字が生まれる前の時代になるので、日本では約6000年以上前の時代ということになります。 

 

そんな地質時代の中でも、大きく4種類の時代に分けられています。

 

「冥王代」地球上で岩石や結晶などの直接的な証拠が少なく、月の石隕石などの情報から推察されています。(約46億年前)

 

「始生代」生物化石はほとんどなくなり研究対象が主に地層岩石になります。(約40億年前)

 

「原生代」顕生代と比較すると生物化石は少なくなるが微化石生痕化石などが研究対象になります。(約25億年前)

 

「顕生代」比較的情報量が多く研究が進んでおり、カンブリア紀はここの特に「古生代」に属します。(約5億年前)

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カンブリア紀地質時代古生代における区分の一つで、この時代の化石が発見されたイギリスのラテン語(カンブリア)から名前がつけられました、この時代の生き物の事を「バージェス動物群」と言います、

 

バージェス動物群の詳細

カンブリア紀に生息していた、「バージェス動物群」、現在の生物と比べて非常に奇異な姿をした生物が多く見られ、この時期の生物群を総称してバージェス動物群の他に、「カンブリアンモンスター」とも呼ばれます。響きがかっこいいですね。

 

この時期の初期には動物門のほとんどすべてが出現したと言われており、この時代に動物の多様性が一気に増大した可能性があり、これをカンブリア爆発と呼びます。それまで単純な構造をした生き物が多かったのですが、カンブリア爆発によって様々な生き物が生まれたのですね。それではここから私の好きなバージェス動物群の魅力を語っていきます。

 

①オパビニア

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目が5個、胴部は15個の体節、口先がハサミのようなギザギザの触手で敵を捕らえる姿は、これまで生存してきた動物の枠には収まらず、「奇妙奇天烈動物」の代表例とされてきました。近縁種さえも類推が不可能な生き物と言われており、最初の復元図が学会で発表された際にはその姿のあまりの奇妙さに会場が爆笑に包まれ、学会の進行がしばらくストップしたというエピソードもあるそうです。

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口はここです。確かに今の生き物ではこのような姿は見られないとても奇妙なフォルムをしています。だからカンブリア紀の生き物は大好きなんです。ロマンを感じずにはいられません。

 

アノマロカリス

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カンブリア紀最大級の生物かつ捕食者の頂点とされており、オパビニア同様、近縁種や分類学的な位置づけが出来なかったのです。名前の由来は「anomalo(奇妙な) caris (エビ)」「奇妙なエビ」から来ており、最大1メートル以上の大きさです。また複数の眼からなる「複眼」であり、レンズの数が約16000個もあるそう、ポケットモンスターの「アノプス」はこの生物をヒントにして作られました。

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ポケモン界ではアノプスがあまり強くない印象なのですがカンブリア紀では捕食者の頂点であったことが非常に意外ですよね。

 

③ハルキゲニア

 

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個人的に1番フォルムの意味がわかりませんでした。

ハルキゲニアはラテン語「幻覚のような、」といった意味がありますが、この図だけを見るとどこが口なのか、どこが眼なのか全くわからないですよね。100年以上このハルキゲニアの研究の続けてきた結果、1992年にこのフォルムが実は逆さだったことが判明します。

 

 

足だと思われていたものが敵から身を守るために生えたもので、背中に生えているものが実は足だったのです。ですのでこのイラストから現在ではこう言った形だったのではと推測されています。

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少し生き物としてのイメージが湧いてきましたね。このハルキゲニアは「有爪動物」の仲間であり、現存する生き物だとカギムシがその例です。f:id:yellowrace:20200923011039j:image

似てなくもないのか??と言う感じですが、やはり当初のワクワク感は無くなってしまいますね。

 

当初のイラストが上下逆さであった事が分かったため、幻覚のようなフォルムだった当初のハルキゲニアの復元は言葉の通り幻になってしまったのです。

 

 

ここまで見てきて、やはり古代の生物というのは今でも謎が多く解明されていない分ロマンに溢れていて、かつミステリアスで非常にカッコイイなと感じました。

もちろん今ある魚にもかっこいいフォルムなもの(例えばアンフィポッドというエビの仲間やサーカスティックフランジヘッドという口の大きなギンポの仲間)だったり、ブダイベタなどの色鮮やかなものもいますけど、特に今回紹介したバージェス動物群らはまるでエイリアンのような、現在では見ることができなさそうな形をしているからいいんですよね。

 

その昔、経済番組の「カンブリア宮殿のカンブリアという文字だけをみてバージェス動物群の番組だと思った私は母に「録画しといて!」と言ったのを思い出しました、何も面白くありませんでしたね。

 

 

それでは最後に、先程紹介したカッコいい、色鮮やかな魚たちの写真を載せて終わらせていただきます。

 

 

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アンフィポッド

 

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サーカスティックフランジヘッド

 

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ブダイ

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ベタ

 

 

 

それではまた。

 

 

 

ごめんねマイペット③

ミーンミーンと鳴き声が聞こえて来ると、「ああ、夏なんだなあ」としみじみ感じます。今回のテーマであるセミというのは身近な虫でありながら何を餌にしているのか、どんな生態なのかを全く知らないミステリアスな生き物で、害虫とも益虫とも取れない中途半端な虫、それがセミ

 

半端な気持ちで捕まえようものなら「そんな網裁きで俺を捕まえようなんて甘いぜミンミン」なんて言わんばかりにオシッコをかけてくる。それがセミ。生まれ変わってもセミだけにはなりたくないですよね。ほんとに、絶対に。気持ち悪いですね。

 

 

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小さい頃、近所の公園には凄まじい数のセミがいました、しかし近くの公園はクマゼミ9.9割、アブラゼミ0.1割のセミ比率だったので、アブラゼミがどうしてもとりたかった私は隣町まで歩き、捕まえに行ったほどセミ愛は深かったのです。昼ごはんはそこそこにして右手には虫取り網、左手には虫かごで、嬉しそうにセミをとりに行き、親に「そんなにとってどうするつもりなんだ」とよく怒られました。

 

セミのお腹を見ると鳴くオスなのか、鳴かないメスなのか区別が付きますので、メスなら逃してオスは籠に入れていました。家の中で聞くセミの鳴き声はまた格別だったからです。仮にセミが人間サイズだったら東京から鹿児島まで、約960キロ先まで鳴き声が聞こえるそう、騒音おばさんなんて可愛いものです。

 

そんな中で祖父は毎日のように虫かごをいっぱいにして帰って来る私をみて「〇〇はセミ捕りが上手い」とおだてられたものですから、「将来は何になりたいの?」と聞かれるたびにセミ捕り博士になる!」といった架空の職業発表によりポカンとした顔をされることがよくありました。だってそんな職業ありませんから、そんなセミ捕り博士は何度もセミを飼育しようとチャレンジしましたが何を食べるのか知りませんから、(調べようともしなかった私が悪い)これまで1度も餌をやったことはなく必ず翌日には死なせていました。(死んだと思ったら急に飛ぶタチが悪い奴もいた。)

仮に現代の技術を駆使したとして、セミを何日間生かせられるのだろうか、土の中に何年も過ごして、僅か1週間という命のなかで、何を楽しみに生きているのだろうか、ずっと疑問に感じます。

 

その昔、世にも奇妙な物語で「来世不動産」という話がありました。死んでしまった1人の男が来世に何になるか「物件」を探し、「1週間の命だが夜の営みの100倍以上気持ち良い」と言われるセミになる、といった話なんですが、もしかすると世のセミたちはエクスタシーのためにあんなに叫んでいるのかな、と感じる話でした。

 

 

 

イイじゃんセミ、やっぱり私も来世はセミになりたい。