独り相撲日本代表

取るに足らない戯れごと

選択する私と選択しない私を選択する私を選択した私の選択についてのお話

私がよく出来た人間になるには何が足りなかったんだろう、人格形成に影響する1番大きなものは何だろう、度々そんな考えが決まって夜にやって来るのです。

というのも初めてのブログhttps://yellowrace.hatenablog.com/entry/2019/12/21/155255

でも話している通り、私は他人の目を必要以上に気にしてしまう性格です。本来の自分を出す事が怖いと言うよりは、長年の積み重ねで出せなくなっている。と言う方が正しいでしょうか、

おそらく本当は明るい性格なんです。幼少期はそうだったはず、知らないうちに親のしつけだったり、自分の視野の狭さからの失敗、皆が当たり前にできている事が出来ないことに気づき、他人にガッカリされ、その場では誤魔化しつつもそんな自分にうんざりする事を繰り返す毎日を送ってきました。ひょっとしたらそういった経験から私は変わっていったのでしょうか、

いつからか、その結果として自分がこれ以上に能力不足だとか、他人にガッカリされないようにというようなリスク軽減のため、先に「変な子と思われるようにそういった人物を演じる」ことで他者からのハードルを下げるといった行為を何年間も続けてきたのです、そうすれば少しのことでも褒められますからね。

いわば「挨拶」という当たり前の行為を、ヤンキーがそれをするだけでエライ!と褒められるような反応を得られるようなものです。

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こういった人間関係におけるリスク回避行為のような物は、自分の中に当たり前のように住み着いている、既に習慣化してしまっている物なので、自分の中に複数人の自分を飼っている事実、本当の自分ではなく、「他者から見られている自分」を無意識に演じようとして、

「自分の中のもう一歩奥にいる自分」が本来の自分ではなく、他者から見た自分を演じる事を選択した結果として、知らないうちに本当の自分がキャラクターとしての自分に取り込まれてしまっている事実には本当に本当に気がつかない物です。

 

大学生という身分の私はコロナ禍の間、人と会わない期間が増えた事でおうち時間の半分以上の時間は自分自身に、自分と向き合う時間を作りました。向き合った内容は全て対人関係においての自分の姿勢です、その向き合った時間のおかげで少しは人間味が出せるようになったのでは無いかと考えています。

そこで自分を作り上げている思想、キャラクターという物はどこから生まれ、どこから大きく影響を受けるのか、それは果たして本物なのか、得たそれが結果としてこの社会にどういった影響を及ぼすのか、といった話をしていきたいと思います。その意図として、このブログにてコロナ前の自分のような人を老婆心ながら救ってあげたいのです。

(私は幼少期から失敗した時、暗い気分になった時に自分はなぜこんな性格になったのか、こんな自分にさせたのは誰だ、という考え、もしくは合理化に近しい物をかなりの頻度でしていたので、この手の知識に少し詳しいのです。今回は小難しい内容ですが読める人は読み切ってください。)

①ラベリング行為から考える

「自分」を知っていくためには、「本当の自分」と「相手が知っている自分」の2種類の人格が備わっている事を前提として考えていきます。まず、自分だけが知っている本当の自分ではなく、「社会から見た時の自分のキャラクター」を形成していくうえで必要不可欠なのは、主体的に、時には受動的に行う社会の中での行為にあります。

他者とのかかわりの中で人の役割には「評価人」と「表現者」の2つが存在しており、表現者”ふるまい”から評価人はそれぞれが持つ「この人は○○の要素を持つ人だから、○○を持っているから、○○に住んでいるのだから、こんな人に違いない」という社会一般的に考えうるイメージの枠組みに表現者をあてはめたうえで、良い意味でも、悪い意味でも評価人は表現者に対してキャラクターという名のレッテルを張るのです。表現者がどう言った気持ちでその振る舞いをしたのか、とあった事情は無視して、今見える事実のみを切り取ってレッテルを張っていくのです。

この、他者との関わりで得た情報(例えば相手の学歴、身なり、言葉遣い、資産など)から世間一般のイメージに相手を当てはめる行為を「ラベリング」と言います。

(例、アイツは入れ墨をしているから暴力団に違いない、暴力団とみなした上でアイツと関わろう、としていくような行為、)

 

表現者はレッテルを張られることで、自らの個性からではなく、他者からの評価というレッテルに沿うように人格は形成されていくのです。つまり、「本当の自分」という存在は「評価人から見た自分のイメージ」によって作られていくという事です。

先程の入れ墨の彼も暴力団ではなく、ただのファッションでしている可能性もあるのに、彼のことを何も分からないくせに、暴力団としての関わり方を世間はするのです。そして彼はそのイメージにより近づくように、無意識にその方向へと動いていくのです、

ここで問題になるのは、世間一般の意識をあてはめていく要素となる表現者の行為は、必ずしも本意ではないまま、評価人からレッテルを張られてしまう可能性があると言うことです。つまり、表現者は社会行為を「他者から見られること前提の行為」「表現者そのものの人が見て取れる意図しない行為」の二つに使い分けているものの、評価人からすれば見えたままを、表現者のキャラクターを決めつけるという事です。

 

皆さんにも同じような経験があるかも知れませんが、ある人が「場の空気を和ませる意図」を持って一発ギャグをし、滑ったとします。その行為を見て私たちは、「この人は昔からこういった滑りキャラなんだな、これから先もそうなんだろうな」と相手の意図とは関係なくキャラクターを決めつけたような経験はありませんか?そのイメージ故に彼を訳もなくいじったりした経験はありませんか?これが仮に彼は本来気を使うタイプゆえに、柄でも無い事をしたのだったら、彼のダメージは計り知れないでしょう。「俺の普段はこんなキャラじゃないのに、、」

彼はそう思っても私たち「評価人」から見たらただの出しゃばりな滑り人にしか見て取れません。言い換えるならば評価人は表現者の行為に隠された真理を読み取る過程をすっ飛ばしたままキャラ付けをしてしまうのです。

だったら「いい人」なんかやってらんねーよって話なんです。変に気を使わなくて良いんです。だって評価人はそこまで読み取ってくれないんだから、

今回の事柄で言えば、表現者にとって、評価人に向けて行った行為が相手の為だという、自らの意思ではないと言う側面を持ち合わせているのにもかかわらず、評価者から「見える部分」のみで世間一般のイメージを通して「ふるまい」を評価されてしまうことになり、表現者は、レッテルにふさわしい行動を取るようになっていきます。人の人格とは、他者によって形成されるものなのです。

 

冒頭に私が試みていた、他人にガッカリされないようにというようなリスク軽減のため、先に「変な子と思われるようにそういった人物を演じる」ことは、実は「私があえて選択した決断」ではなく、私の数多い失敗から、時には自己犠牲のため(先述の場を和ませる行為のような物)に行う面白おかしい行動から『「私」はどんくさい人である』と親や友達などの「評価人」が下した世間一般の「鈍臭い」イメージを私に当てはめ、その上で評価人が私をラベリングをすることで、私自身が「そうか、私は鈍臭いキャラなんだ。」と「評価人に操られる形」で「鈍臭い私」という1人の人物が完成していくのです。そして他人に操られている事に気がつかないまま日々を過ごしていく事になるのです。

 

文化資本から考える


では評価人が表現者に対して世間一般のイメージを通してレッテルを張る基準となる、表現者の「ふるまい」の質はどこから得ていくものなのか?

それは「文化資本」という自らが持つ、自分の価値を証明するものがあります。この文化資本には3種類あり、

①「自ら動いて得た価値でしぐさや趣味、ものの言い方など、意識せず日頃の生活で身についたもの。

②「書物や骨董品などの形で表された、資本力

③「学歴、資格などの周りから認められる形で表されるもの。」の3つが、自らの価値を証明する資産となるのです

が、

実はこれらの資産というものは、同時並行で得られないのです。生まれ持った居住地や身分、財の所持状況の“程度”で①の個性、しぐさといった無意識の慣習が形成されて、評価者が①から表現者をラベリングする材料とし、そこでラベリングしたキャラクターによって、②.③の程度が決まってくるのです。

 

人が身につけていく人格は、言い換えれば他人がラベリングをする材料となるものは、生まれの場所、所持する資本の程度で決まるといっても過言では無い。という事です。

 

不公平すぎます。では貧乏な人は皆んな嫌な性格をしているのか?全員が全員そうとは言い切れません。しかしながら、貧乏な親というものは、子どもに与えるもの(教育費、財によって与えられる事のできる経験)などが大金持ちとは比べ物にならないでしょう。

 

すると何が起こるでしょうか、極端な話かもしれませんが貧乏な家庭で育った人なら「心身共に満ち足りている」生活を送れません。その日その日を過ごすのに精一杯なほど貧窮していれば食べ物を万引きをするのでは無いでしょうか、まともに学校に通えなかったり、通えたとしても、自分の境遇と似たような人とつるむようになり、不登校になるのでは無いでしょうか、不登校を経験する事により「何でも諦めてしまう、途中でやめてしまう」性格になるのでは無いでしょうか?

 

常識もまともに知らないまま身体だけが大人になった時、残されているのは評価人から「社会の外部に属するもの」という評価だけです。

社会から差別を受けるかもしれません。いい職につけないかもしれない。職にもつけないかもしれない。評価人は「貧乏な家庭で育った」バックボーンを理解していなくとも、①のような言葉遣い、しぐさなどからそのような背景で育ったと判断します。そこから世間一般のイメージにその人たちを当てはめ、「〇〇はこんな言葉遣いだし、こういうキャラだろう」とラベリングをされ、表現者の彼らも、それにより近づくような行動をしていきます。

事実、私もそういった「社会の外部」に存在する人たちは「教育に費やす費用が足りなかったからそうなったのだなあ」と彼らをラベリングするでしょう。

 

悲しいですが、ラベリングにより人々の人生は大きく左右され、仕事に対して「指示するもの」「指示されるもの」という社会構造すら生まれてしまいます。資本主義が大きく広まった現代のような、世界をより良くしていくために「下の人間」を犠牲に発展を続けていく日本であれば尚更その傾向は強いのでは無いでしょうか、

 

ところで、評価者が評価する表現者のふるまいのうち、①の身体化された振る舞いは自らがコントロールして形成されるのではなく、生まれた場所やその土地での身分によって個性が形成されるので、貧しいところで育った人物ならば、後から成り上がりにて財を得ようが、②を得ようがそれまでの身体化された蓄積された行為が表面に現れるので、評価人からすると文化資本が豊かとは見てとられないのです。

 

例えばここ1ヶ月のうち、生まれてからずっとホームレスの人が宝くじで10億円を当てたとします。どれだけ高価なものを身につけようが、どれだけ高級なレストランに行こうが、それまで蓄積してきたホームレスなりの行動は消せるものでは無いですよね。食事の席で言えばテーブルマナー、ドレスコードなどの知識は一朝一夕で得られるものでは無いので、その場にいる評価人からすると、ホームレスがどれだけ高価なもの(②)を持っていようが、それに見合う行動(①)が無ければ良いイメージのラベリングはされません。

 

なぜ彼は身なりが綺麗なのにいいラベリングをされないのか?生まれ育った環境から得ていった無意識の行為と身につけているものが矛盾していたからです。生まれ育った環境が悪かったからです。この世はほとんど環境ゲームです。この近代資本主義が広まる現代で資本的に、思考的に貧乏な家庭に生まれたら終わりという考えが深く根元に埋まっているのです。

 

それに気が付かない人たちは自ら(私たち)が生き辛くなった時、自らが選択してキャラクターを演じていると勘違いしています、実は他人から、社会からにも操られ、果てには従事していく仕事や生活なども決められていくのに、、

 

つまり、この社会は
①現存している社会構造である、資本主義は下位存在の犠牲をもとに、差別という名のエンジンで発展化し続けている社会がある、という事実がある
②下位存在は資本が相対的に少ないから住むことの出来る場所が限られる、教育に投資させられる額が小さいゆえに文化資本が小さい、その中で得た文化資本に基づいた振る舞いから他者との社会的相互行為に臨み、評価人が○○な人物だ、と社会意識のもとラベリングをする
③ラベリングされた人は良い人物でも悪い人物であろうとラベリングされた人の「世間一般のイメージ」のもとその人物にふさわしい人として振舞おうとする。
④これまでの過程にて人それぞれの社会的イメージが出来あがって、それぞれが属するようなコミュニティまで自然と進んでいくことで日本の社会がより発達していく。

 

人格は社会に連動していて、こういった図式が浮かび上がる。という結論に私は至ったのですが、自分がこんな社会構造に取り込まれない事ができる方法を見つけました。わたしは一年かけて、コロナ禍を経て考えついたのです。

 

 

それは、

 

 

 

人の目を気にせずにやりたい事をやる。ネガティブ禁止。自分が1番。

 

 

それだけ!初めからポジティブなやつが世界一!

考えすぎな性格は損ですからね。こんなにシンプルな事で日々の生活が楽になるなんて、目から鱗でした。

 

 

いやあ、自己肯定感がほしいね。2022年も頑張りましょう、

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それではまた。